米子城
別名 久米城 湊山城 |
付近住所 鳥取県米子市久米町 | 現在- |
2008/11/25 | 碑・案内板アリ | 日本城郭大系 |
山名宗之 吉川広家 中村一忠 加藤貞泰 池田由之 池田由成 荒尾氏 |
米子荒尾氏10代の成裕が「梅雨晴れや朝日に匂う久米ヶ城」とうたった米子城本丸の偉容は、藩主が居城していた鳥取城を凌ぐものがありました。元和元年(1615年)に江戸幕府が発した「一国一城令」において例外として存続が許された全国の支城のなかで、米子城のような天守をそなえたものは稀有な存在でした。 米子城が湊山を中心とする近世城郭としてほぼ完成したのは慶長6年(1601年)で、松江城に先立つこと10年、近世当初の城郭としての特色を誇る名城でありました。戦国末期に、出雲東半分・伯耆西部・隠岐島の領主として出雲の富田城(島根県広瀬町)に入った毛利一族の吉川広家が、天正19年(1591年)から米子城の築城に取りかかったといわれています。前面の展望と背景の港を格好の立地とした毛利一族の着眼はさすがでした。 関ヶ原の戦い(1600年)の結果、吉川広家は岩国へ転封となり、中村一忠が駿河国から転入し城を完成させました。三重の濠、郭内の侍屋敷、城外の町人区を持つ堂々たる縄張りをしていました。 中村一忠急死後、中村家は断絶となり、慶長15年(1610年)加藤貞泰が美濃国から転入しましたが、7年足らずで伊予国大洲に転封となり、元和3年(1617年)に因幡・伯耆の両国の領主となった池田光政の一族である池田由之が城預かりとなりました。その後、寛永9年(1632年)、池田光政が備前の領主、池田光仲が因幡・伯耆両国の領主へと国替えとなり、池田光仲の家老の荒尾成利が城預かりとなり幕末まで荒尾氏が11代にわたり米子城を管理しました。 大小2つの天守を連ねる典型的な平山城として、湊山(標高約90m)上の本丸を中心に、東方の砦である飯山(標高約52m)、西方の丸山(標高約49m)をとりかこみ、大天守は高さ約20mの四重五階、小天守は高さ約15mの四重櫓、この二つを本丸につらね、山陰一の名城といわれました。 その後、明治時代に入って城郭の建物は姿を消し、内外の濠も埋められました。 しかしながら、本丸の石垣の上にたって朝夕の眺望をほしいままにすれば、往時への感慨一入のものがあるでしょう。 旧小原家長屋門 この長屋門は、市内西町の小原家にあったが、昭和28年米子市に寄贈され現在地に移築し、市立山陰歴史館として昭和59年まで利用してきた。 小原氏は、米子荒尾家の家臣で禄高120石であった。 建物は、江戸時代中期の建築で、木造瓦葺入母屋造りの平屋建てで、床面積は84u余りであった。大扉の向かって右側に一室、左側に二室あって、その上は一部低い中二階になっている。 市内に現存する唯一の武家建築として貴重である。 |